深海航行記

海流の行き着く先

谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』溶け合う「日常」と「非日常」

レーベルを角川文庫に移した『ハルヒ』。僕は常々ハルヒ岩波文庫入りを願ってきているのだが、その未来は確実に一歩近づいたようだ。
ラノベ作品には見えない、とネットで話題になった表紙と、筒井康隆解説に釣られて思わず購入。感想というか、ほとんど懐古厨の懐古をする。

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川文庫)

懐古

何を隠そう、ゼロ年代を中高生として送った僕にとって、ハルヒはひとつの転換点であった。多くの同世代のオタクたちと同様に、僕の歴史は、ハルヒ以前とハルヒ以降に区分される。ハルヒ以前は、根暗でカーストの下の方でひっそりと生きていただけの時代。ハルヒ以降は、相変わらずカーストは下のほうだったけど、僕の暗くて閉ざされた世界にサブカルチャーが舞い込み、精神の安寧と、適度な刺激を手に入れた時代。

とはいえ、僕が中高生を送ったゼロ年代の田舎は、いまだオタク文化=キモイの定式が崩れていなかった。オタクであることがばれれば待ち受けるのは社会的な死。というのは極端にしても、見られる目は変わってしまった。様々な人の目の網の中、閉ざされた教室で、「こいつ違う」という烙印を押される恐怖は、中高生の僕にとっては何よりも避けるべきものだった。カミングアウトできなかったのだ。だから、僕の世界は開けたものの、オタクは隠すべきものであり続けたし、実際、うまく隠し続けていた。と思う。

このころからすれば、現在は国民総オタク時代。アニメキャラは様々なところへ活躍の舞台を広げ、生活のいたるところへ浸透している。誰もが自然とオープンにアニメや漫画について語ることができる。聞くところによると、我が地元の小学校では、アニソン、ボカロ曲がお昼のリクエスト曲として流れることも少なくないという。 なんともいい時代になったものである。たぶん今の中高生だって、周りから隠したいと思う何かは依然として存在しているだろうけども。

なんて、まるで老人のような文を綴ってしまったが、まあ仕方ない。だってハルヒ読んだのだから。

感想 日常/非日常の境界と侵食

と言っても今さら僕などが付け加えることなどあまりないけども。
やっぱり日常/非日常の区分け(あるいは曖昧さ)は大きなテーマなんだろうなあと。登場人物たちはその境界線上でドラマを展開しているし、。そして、この区分けを強調する作品に過去の僕はひかれたのかもしれない。学校というシステムは、僕にとってどうしても「繰り返し」の日常を意識させてくれたので。
キョンの視点で語られる日常世界は、ハルヒの登場に伴って、次第に非日常なものに変化していく。宇宙人、未来人、超能力者。彼らと出会い、交流を深めていくキョン。しかし、彼はそれらを避けるでもなく、おかしいと声を上げるでもなく、自らの日常へと取り込んでいく。彼の日常は平凡なものではなく、非日常な日常とでもいうべきものへと変化する。
このあたりは、のちに『消失』へとつながる重要な構造だ。果たして彼が選択するのは、「平凡な」日常か、それとも、「非日常な」日常か。彼は、ハルヒたちが持ち込む非日常を、ただただ呆れつつ流されていたのか、それとも、自らの意思で取り込んでいたのか。

日常/非日常という区分は、ハルヒ自身がその体現といえる。彼女は、非日常を求めつつ、その一方でそんなことはあり得ない、という普通の判断基準を獲得している。彼女の内面は、日常/非日常の境界を作り出している。
日常に飽き飽きし、SOS団を結成したハルヒ。それでも退屈な日常に嫌気がさし、いらだちは止まらない。ついには非日常な世界を生み出し、世界の再創造を行おうとする。それでも、最終的にハルヒが選択したのは、元の日常であった。
彼女はこのとき、退屈な日常をできうる限り楽しもうと(少なくともこの時は)決意をした。彼女は以降、非日常を希求し続けつつも、あくまで日常の存在を受け入れ、楽しんでいる。結局、彼女の選択も、日常の中に非日常を取り込もうとしたという点で、(出発点は違うにしても)キョンの選択に通ずるものがある。

キョンにとっても、ハルヒにとっても、当初明確に見えていた日常と非日常の境界は、徐々にその輪郭を失う。彼らの世界は、日常でありつつも、非日常。非日常でありながら、日常として立ち現れる。彼らは、非日常を愛しつつも、日常もやはり楽しむのである。

こう考えると、中高生のとき読んだ頃は、「非日常いいなあ」とか単純に思っていたわけだけど、少し違った読み方をしていたなあと感じられた。案外「日常」も大切にしているじゃんと。


角川文庫で再版されたハルヒ。まさに「襲来」。あと『消失』は買いたいなあ。