深海航行記

海流の行き着く先

平野啓一郎『マチネの終わりに』「運命」に呑まれる「自由」

ずっと読みたいと思いつつ、読めずにいた平野啓一郎作品。とても好みだった。著者の自由への関心の高さが伝わってくる小説。恋愛小説というよりかは、自由の物語のように僕には感じられた。広くおすすめしたい。

今年の秋には福山雅治さんと石山ゆり子さんで映画化もされるらしい。ぜひ観に行こう。 刊行からだいぶたつけれども、感想を。

マチネの終わりに

マチネの終わりに

ふたりの主人公は、平均的読者から大きく外れているように見える。ひとりは、通信社の最前線で活躍する記者であり、深い教養と聡明さを兼ね備える。またもうひとりも、幼少より天才の名を恣にするギタリスト。ふたりはあまりにも才能に恵まれている。 また、ふたりが生きる舞台もイラク戦争リーマンショック東日本大震災など、同時代性を感じながらも、語るには思わず身構えてしまう事件が選択されている。そんな世界にあっても、極めて聡明で、思慮深いふたりは当事者性を持ちつつ、それでいて高い客観性を以て自らの存在を把握する。

読み始めてすぐのころ、ふたりは縁遠い世界の人物のように感じられてしまう。 だが、筆者の優れている点は、卓越した人物を違和感なく描き出しながらも、読者を決して蚊帳の外に置かないことにある。実際、私自身読んでいて、明らかに縁遠いふたりの主人公たちの息遣いを身近な存在として感じることができた。

あるいは、「恋愛小説」というテーマが、身近さを感じさせる装置なのかもしれない。恋愛は、特殊性と普遍性を兼ね備えた概念のように僕には感じられる。遠い存在のふたりと私たちの共通概念として、恋愛が存在する状況が作り出されている。確かにふたりは特殊であるが、彼らが恋愛において抱く感情は、どこか共感を覚える。
恋愛というテーマによって、特殊な存在を普遍的に描き出すことに成功しているのではないだろうか。

しかし、そのようなテーマ自体の効果があるにせよ、ふたりの特殊性を、広く受け入れられる普遍性をもって表現できる筆者の力量には、やはり感服するほかない。

個人的に、本書のおもしろさは、恋愛よりも「自由」にあった。正確言うと、恋愛というテーマも、自由というより大きなテーマに内包されているのだと思う。 個人的な関心に重なるところもあって、以降では、「自由」というキーワードから、話を進めていきたい。

過去は変えられる

物語全体を貫くのは、蒔野による次の印象的な言葉。

「過去は変えられる」

ふたりの主人公、あるいは、その身近な人々が生きるのは、必ずしも未来を選択できない世界。イラク戦争も、リーマンショックも、東日本大震災も、繰り返されるはずだった日常を人々から奪い去り、暗転した世界に否応なしに引きずり込む。

ここにおいて、「自由な選択によって未来を選び取る」、という世界観は現実感のない神話に過ぎない。退屈で呑気な日常を選択することなどできない。 外在的な「運命」と表現することで痛みから気を逸らすしかないように見える世界において、なお、自由はありうるのだろうか。

このあたりのテーマは、洋子とソリッチによる親子の対話に鮮やかに提示される。わずかに数ページの短い対話篇であるが、この対話に物語の多くが込められているように感じられた。

人間の行動すら、すべてシステムの予期する通りに組み込まれ、我々の選択の余地は縮退の一途をたどる。システムによる「運命」が拡大する中で、人間の自由意思なるものは、どこにありうるのだろうか。

ふたりの答えは「過去は変えられる」ということ。どれほど選択の余地もないままに、世界に翻弄されたとしても、過去を「受け入れ可能な形」に捉えなおすという選択によって、新しい世界を歩むことを可能とする。

変えられない過去と運命

このあたりの発想は、以下の著者インタビューで語られるように、現在から過去を推論しようとする態度への反駁があるだろう。

「過去にこんなことがあったからいまの自分はこうなんだという因果関係の牢獄に閉じ込められたままでいる必要はなくて、未来をどうしたいというところから、いま何をすべきかを考えてみてもいい。」

http://crea.bunshun.jp/articles/-/10921

「過去は変えられる」という言葉は、現代の不確実な世界を生きる上で、救いにもなる。過去の自分から、現在の自分を決定的に定義する必要はない。現在と過去は、一定の因果関係で結ばれるかもしれないが、その関係は、再定義可能である。だとすれば、現在の自分の在り方が、自らを取り巻く世界を生きる上で、困難を感じるのならば、「過去を変えて」、また新たな自分を定義すればよい。

しかし、現代社会は、繊細な過去すらも変えさせまいとする論理が働く。

個人情報ビジネスの進展と、ビッグデータによるプロファイルの存在は、現代を生きる人の「自由」を変容させる存在である。ECサイトのリコメンド機能は、自らの過去の選択から、将来の選択を決定づけている。また、今後始まるであろう、採用活動におけるAIの活用は、自らの過去から将来を予測され、合否に影響を及ぼす。

この意味で、私たちが自らの心の中で過去を変えたとしても、サーバに記録された過去は、強固な実在として、私たちの選択の自由を脅かす。 この世界は、自由意志の領域を削減し、運命論へと向かっていく。「過去を変える」ことすら許さずに。

あるいは、恋愛すらも、こうした論理に取り込まれいくかもしれない。恋愛に関しては、本作においても、比較的自由意志が通用する領域のように見える。だからこそ、ソリッチの「自由意志」と「運命」の語りが、鮮烈な印象を私たちに与えている。 だが、プロファイルが進めば、私たちのパートナーすら、データによって知らず知らずに決定されゆく世界は十分にありうるだろう。 この世界は、今再び、機械的な「運命劇」へと向かっている。こんな世界で「自由」はいかにあるべきなのだろうか1

『マチネの終わりに』で語られる、運命と自由のせめぎあいは、この世界の切実な現実として、僕には感じられた。

選択しないという選択: ビッグデータで変わる「自由」のかたち

選択しないという選択: ビッグデータで変わる「自由」のかたち


  1. このあたりの議論は、キャスサンスティン『選択しないという選択』に詳しい。