深海航行記

海流の行き着く先

踏切板からの眺め

出会った踏切の名前をメモ帳に書き込んでいた時期がある。だいたい小学校3年生くらいだったろうか。肌身離さず手帳を持ち歩き、踏切の名前を蒐集していた。旅行かなにかで、たまに車で遠出するのが大きな楽しみだった。なぜなら、未知の踏切の名前に出会えるからだ。  沢踏切、赤木踏切、小沢踏切、……。ただひたすらに踏切の名前をメモ帳に書いていくだけ。それでも、踏切の名前集めは、なにか特別のことのように思えた。踏切の名前を示す板は、僕の心になにかを訴えかけてきた。これから死ぬまで全国津々浦々、踏切の名前を集めていけば、なにかを成し遂げられるのではないか。踏切の名前ばかり集めたたくさんのメモ帳を前にすれば、なにか世界の真理なるものにたどり着けるのではないか。その頃は、なぜだか真剣にそんなことを考えて、日々、踏切の名前を書き連ねていった。ただただひたすらに。  

  もちろん、今ではそんなことはしていない。いつの日にか、メモ帳は持ち歩かなくなり、机の引き出しの中で深い眠りについている。踏切を見ても、名前なんてわざわざ見てもいない。かつてあれほどの存在感をもっていた踏切の名前板は、もはや僕に何も語りかけてこなくなった。ただの金属板にしかみえない。  踏切の名前集めをやめた理由はよく覚えていない。インターネットで調べればすぐわかることを知ったからかもしれないし、踏切の名前を集めても世界の真理などわからないことを悟ったからかもしれない。あるいは単純に飽きたのかもしれない。意外と飽きっぽい性格だし。

ただ、世界から新しいものを集めようとする感性は、小学校のころと変わらず残っていると思う。知識欲とか好奇心でも言うのだろうか。知らない場所に行ったときなど、まずはそのまちの、自分にとっての新しさを見出そうとする。初めて大学のある京都に来たときは、やたらリプトンと銭湯多いなと思ったし、イギリス旅行に行った際には、電線がないことと、ホームレスが見当たらないことに驚いた。僕は踏切の名前板より広いところに、面白さを見出すようになったのかもしれない。子どもにとって、世界はなんでも新しいから面白いが、大人にとって、そうではないという。しかし、大人になっても、世界の新しさなんていくらでもあって、それに気づくか気づかないかだけなのだと思う。

そんな気持ちを抱えながら、僕は電車に乗り会社に向かう。いつも同じ繰り返し、にならないことを祈りながら。